米津玄師「さよーならまたいつか!」の解釈

米津玄師の新曲、「さよーならまたいつか!」が4月8日からフルで聞けるようになった。

以下は、歌詞がどういうことを言っているのかを(部分的には友達と一緒に)考えたので書き留めておこうという覚え書き。

4月1日から放送の朝ドラ「虎に翼」の主題歌だということから、基本的には主人公である寅子のことを歌っているものだと考えている。

境遇はあまりよくないが、その中で大切なものと自由とを願うというのが基本的な内容だと思う。さよーならまたいつか!と別れを告げるその相手が誰で、「100年後」の再会を願うというのがどういうことなのかというのがこの曲のおもしろいところだと思う。

 

どこから春が巡り来るのか知らず知らず大人になった

「春」は幸せのことだと思う。あるいは何か、私にとって大切なもの。寅子は自分がどうすれば幸せになるのかがわからないまま大人になった、ということだろう。

 

見上げた先には燕が飛んでいた 気のない顔で
もしも私に翼があれば 願う度に悲しみに暮れた

ふと見ると燕が飛んでいる。「燕」はもちろん翼を持つものであって、すぐ次の行につながる。もしも私に翼があれば。「翼」は作品タイトルである「虎に翼」の翼でもあるけれど、それに加え、やはり自由のことだと思う。空を飛び回り、どこへでも行ける自由を与えるもの。それが私にはなかった。決して得られないとも思えるものを願い悲しんでいた。私の選択肢は狭められていた、私は自由ではなかった。「悲しみに暮れた」と過去形であることに注意すべきだろう。いまは私には翼があるのかもしれないことを匂わせている。

 

さよなら 100年先でまた会いましょう 心配しないで

ここはこの曲の歌詞の中核だと思うが、難しい。誰かに別れを告げて、100年先で再会しようと言っている。誰に? 100年後に再会するってどういうこと?
でもおそらく、ここの表現は寅子が三淵嘉子という実在人物をモデルにしていることと関連がある。人々の中に名を残した人物だ。いま生きている「人々」あるいは「世間」や「社会」のようなものに対して別れを告げ、100年後、100年先の人々、世間、社会に再会しようと言っているのかな。そのとき私はもう生きていないけれど、私の名は残っているかもしれない。
「心配しないで」も難しいが、100年後の再会まで私は私の人生を生きるから、私のことは心配しないで再会を待っていてね、という感じかなと思う。2015年の「アンビリーバーズ」の一節を思い出す。

そうかそれが光ならばそんなもの要らないよ僕は
こうしてちゃんと生きてるから心配いらないよ

正しいとされる側に対するかすかな抵抗を込めて「心配いらないよ」、「心配しないで」という言い方をしたい思いが米津玄師にはあるのだと思う。正しい側から、そこから逸れていこうとする私を心配し、私に「正しい」助言をくれる誰かに、心配いらないよと伝えるということ。

 

いつの間にか花が落ちた 誰かが私に嘘をついた

ここも難しく、友達と話していてどう読むかがある程度固まった。
「花」は普通「春」を構成するものだ。「春」は幸せ、あるいは私にとって大切なもののことだろうというのは上で言った通り。幸せ、あるいは何であれ、私にとって大切なもの。その花が「いつの間にか落ちた」というのは、私にとって大切だと思っているものの価値がいつのまにか低く見積もられるようになった、ということではないかと思う。大切なものというのは、たとえば結婚適齢期を迎えた女性にとっての学問や、「知的であること」を含む。
「花が落ちた」と人は言う。それは「嘘」だと私は思う。誰かが私に嘘をついた。

 

土砂降りでも構わず飛んでいくその力が欲しかった

ここは翼を願うことの続きだろう。土砂降りの雨が人生におけるさまざまな困難のことを言っているのは間違いないと思う。寅子の人生ではなおさらだ。「翼」はそうした困難を跳ね除ける「力」のことでもある。

 

誰かと恋に落ちてまた砕けてやがて離れ離れ

ここはドラマが進んでいくとわかるようになるのかなと思う。いまのところはよくわからないので保留。三淵嘉子は結婚したが戦時中に夫と死別したそうなので、そのことを言っているのかなとは思う。

 

口の中はたと血が滲んで空に唾を吐く

天に向かって唾を吐くとか、天に唾するという慣用句があるが、その用法を見ると「人に害を与えようとして、結局自分に返ってくるような行為をすること」の他に、「自分より上位に立つような存在を、冒し汚すような行為をすること」の意味で用いられることもある。ここでは後者かな。権威から理不尽な目に遭い、歯を食いしばっているとはたと血が滲む。そうしてその権威に対し、血の混じった唾を吐く。

 

瞬け羽を広げ気ままに飛べ どこまでもゆけ

ここは上で見た翼の比喩を引き続き受けている。「羽(翼)」は自由を言っている。それがあれば気ままに、どこまでも行ける。

 

100年先も憶えてるかな 知らねえけれど さよーならまたいつか!

再び「100年先」。いま生きている人々にある意味で別れを告げ、100年後の再会を望んでいる。100年後にも私の名は残っているだろうか。いまはわからないが、さようなら、ということだろう。

 

しぐるるやしぐるる町へ歩み入る そこかしこで袖触れる

「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」(種田山頭火)から取っているのだろう。冷たく、降ったり止んだりする雨の中、山へではなく町へ、人々の中へ歩み入る。人々の中へ入っていくのだからそこかしこで袖が触れる。雨の中でも、山で一人で生きるのではなく、町で人々の中で生きることを選ぶということだろうか。いまひとつわからない気もするが、ドラマが進んだら何かわかるかもしれない。

 

見上げた先には何も居なかった ああ居なかった

「見上げた先には燕が飛んでいた」との対比。三淵嘉子が女性初の法曹となった人物だということを考えれば、自分の生き方の手本とできる先人がいないことを言っているのだろう。燕くらいしか。
ここで笑い声が入っているのが印象的だ。先人もなく、置かれた境遇を笑い飛ばす意味だろうか。

 

したり顔で触らないで 背中を殴りつける 的外れ

ここも、いまのところよくわからないので保留。ドラマが進んでいくとわかるようになるのかな。どうだろう。

 

人が宣う地獄の先にこそ私は春を見る

ここはドラマ第1週を見ていたらわかった。寅子の進む先は「地獄」だと言われる。けれども、その先に「春」を、幸福を、大切なものを寅子は見ている。

 

誰かを愛したくて でも痛くて いつしか雨霰

ここもいまのところよくわからないので保留。

 

繋がれていた縄を握りしめてしかと噛みちぎる
貫け狙い定め 蓋し虎へ どこまでもゆけ

私を繋ぎ止める縄は私の自由のなさのことだろう。それを噛みちぎる。まさしく虎のように。「虎」は、自由で、自分の進む先を自分で決めることのできる力を持ったものというくらいだろう。

 

100年先のあなたに会いたい 消え失せるなよ さよーならまたいつか!

「100年先」、3度目。「あなた」との100年後の再会を望んでいる。「消え失せるなよ」というのはよくわからないが、一応は社会の衰退ではなく繁栄を願っているよという感じだろうか。

 

いま恋に落ちてまた砕けて離れ離れ

ここは上で書いたように保留。

 

口の中はたと血が滲んで空に唾を吐く

ここは上と同じ。権威から理不尽な目に遭い、歯を食いしばっているとはたと血が滲む。そうしてその権威に対し、血の混じった唾を吐く。

 

いま羽を広げ気ままに飛べ どこまでもゆけ

ここも上と同じ。「気ままに」、自由に「どこまでも」行こうとしている。

 

生まれた日から私でいたんだ 知らなかっただろ さよーならまたいつか!

友達に言われてたしかにそうかもと思ったのだけれど、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」を受けているのかな。私は何であるよりも前に私だ。100年後の人々はそれをわかっていてくれるといいという願いとともにさしあたりの別れを告げる。

 

こんな感じかな。