冬の祈り

祈りの言葉はある程度書き留めるほうがいいかもしれない

理由が大事な理由って何?

3月17日火曜日に南山大学にて開かれたイベントに参加した。哲学論文の査読制度に関する公開討論みたいな感じのもの。そのイベント自体はとっても興味深い多様な話が大量に行われていたのできわめて有意義だったが、その話はこの文章の本題ではない。(その話はまた今度、書き留めておきたい。)

さて懇親会で、一人の参加者の方(以下Aさん)が、Aさんの隣の人と、向かいに座った人に、「理由が大事なのはなぜですか」と尋ねていた。

わたしが気づいたとき、二人はAさんにこもごもこういう返事をしていた。「なぜか」という問いは理由を求めている。つまり、Aさんはいま理由を求めている。ということは、Aさんは理由が大事であるとすでに思っているはずだ。

わたしは埒が明かないと思った。

第一に、「なぜpか」という問いを見くびらないでほしい。「なぜpか」という問いは、しばしば暗黙裡に、「本当にpか」という問いと重なり合っている。したがって、pだと考えていてもなお「本当にそうか?」「実際にはpではないかもしれないのに」と考えることが認識的にまったく正当であるからには、pだと考えていてもなお「なぜpか」と問うことは認識的にまったく正当ではないか。

第二に、何かを求める気持ちをみくびらないでほしい。自分が大事だと思っていないものや、大事かどうかがわからずにいるものを求めることについて、たとえそれが不合理だと本心から考えていたとしても、それを求める心が消えるわけではない。わたしたちが、大事だと思えていない何かを求めることは不可能だ、とでも言うのだろうか。あるいは、何かを求めるとき、それが大事であるかどうかをわたしたちはつねに把握しているとでも言うのだろうか。わたしたちはわたしたちの不合理性を真剣に受け止めてもよい。

第三に、自己論駁(self-defeating)論法の認識的貧しさを見くびらないでほしい。自己論駁論法の貧しさたるや、背理法の貧しさに匹敵する。(というか、これらの間に実質的違いはないかもね。)これらは結論の真理を保証したり、認識的信頼性を上昇させたりするかもしれないが、その真理なり信頼性なりの出自と来歴を十分明らかにはしてくれないようにわたしは感じる。わたしたちの思考や推論には、現時点の多くの聡明な哲学者たちをはじめとする多数の研究者や非研究者らが一致して承認している有効な推論のパターンから取りこぼされている重要な思考や推論が無数に、多種多様に眠っているのではないかとわたしは思う。自己論駁論法や背理法はそうした眠れる豊かな推論に見向きもせず結論への道を急ぐ。これらを用いた推論について時々「たしかに示されたが、示された気がしない」という経験が生じるのは、そのゆえなのではないだろうか。これは仮説ね。

というわけで、「理由が大事なのはなぜですか」について。

わたしは認識的に貧しくない推論によって「理由は大事だ」に辿り着くその経路をその場で考えてみた。そうしていると、けっこういい感じかもと思えた推論を思いついたので、Aさんに話してみた。以下はその要約。(本題までが長くなった。)

  • どんなことでもいいので、何かを選び取ろうとする場面を考える。例として、たとえば「江戸幕府は実際にあった」という考えと「江戸幕府はなかった」という考えのどちらを受け入れるかを選び取ろうとしている場面を考えよう。後で一般化するのでいったんこれで。
  • このとき、わたしたちは「江戸幕府は実際にあった」と「江戸幕府はなかった」のうち自分が受け入れる考えが、どちらでもよい、とは思っていないのではないか。つまり、無関心(indifferent)ではないのではないか。わたしたちはランダムに、無作為に、たとえばくじ引きやコイントスで、どちらの考えを受け入れるかを選ぶことはなんだか嫌だ。嫌なはずだ。これを仮に前提してみよう。ある主体がこの点で無関心ではない、というこの前提を〈Indifference_E〉と呼ぼう。江戸幕府があったと思うか、なかったと思うか、どちらでもよくはない、ということ。
  • さて、どちらでもよくはないということは、どちらかがいい、ということだ。
  • しかし、どちらがいいのか?
  • その「どちらがいいのか?」を考えるために参考にすることのできるものたち。そのすべてこそが理由なのではないか、というのがわたしの仮説だ(全体論であれ原子論であれ)。そして、その「参考にできる」ということがもつ(道具的)価値が、理由の大事さなのではないか。
  • 例に即して辿り直す。あなたは「江戸幕府は実際にあった」と「江戸幕府はなかった」のうち自分が受け入れる考えとしてどちらを選んでもかまわないのではないはずだ。本当に完全にどちらでもよいということはないはずだ。つまり、どちらかがよいはずだ。では、どちらがよいのか。何も参考にできるものがないと、あなたはどちらかがよいのかを考えることができず、あなたにできることは、ランダムに選んだどちらかを受け入れる、ということと変わらなくなってしまう。これでは嫌なままだ。そこで、あなたは何かを参考にできたらな、と思う。大量の一次資料、二次資料、専門家の書いた教科書、等々。この例においてはこれらの一つ一つが、またはその総体が、理由だ。あなたにとって理由が大事である、その大事さはこうして、江戸幕府があったと思うか、なかったと思うか、どちらでもよくはない、ということに、いま見てきた仕方で、由来する。
  • そして一般化しよう。いま〈Indifference_E〉という仮定から話を始めたが、もちろん「江戸幕府は実際にあった」と「江戸幕府はなかった」のどちらを受け入れるかについては無関心である人はいてもおかしくない。それから、それを極端に推し進めて、ありとあらゆる選択について無関心だという人だって、ひょっとするといるかもしれない(初登場時のカナヲとかね)。炭治郎と出会う前のカナヲにとっては理由は大事ではなかったのかもしれない。これは認めよう。しかしわたしたちのほとんど全員はそうではない。わたしたちのかなり多くは、自分のかなり多くの選択について、無関心ではない。したがって、わたしたちのかなり多くにとって、かなり多くの選択について、いま見てきたような仕方で、理由は大事だ。こういうことなんじゃないだろうか。理由が大事な理由は、関連する選択にわたしたちが無関心ではいられないことなのではないか。

理由がこうして大事だとして、これは端的な価値、内在的価値ではないということになるだろう。私たちがしばしば有する関心に由来する価値。

おまけの疑問。このように理解された「理由の大事さ」という価値は、バックパッシング説によればおそらく、価値であるからには理由に基づけられる。しかし、いまわたしが書いてきた話は、最後の最後に理由には行き着かないような価値の理解だと思う。すると、理由の大事さはバックパッシング説の反例にならないだろうか。

おしまい。

日記 2026年2月~3月 未明が一番冷え込むのと同じ

月の超途中からだけれど、日記を書く。

22日 日曜日

今日は一段とさみしい。それから、疲れている。(疲れているからさみしいのかもね。)

先週くらいに論文のでか構想が一つ降ってきて、それからそれに少し関係する内容で口頭発表の構想も一つできて、最近はそれらを形にしようと努めている日々。あと去年投稿した論文の査読対応が2件(単著1、共著1)あって、それも。やや忙しいかも。

それから、2週間前頃までかけて、仕事の合間に、4万字くらいの小説を書いた。小説を書いたのは4年ぶりみたい。小説を書くというのは、ひとことで言えば、よい経験だ。ふたこと以上で言うと長くなるので(あたりまえ)、数日後などに今回の執筆経験を振り返ろうかしら。作品は今度、というか来月、文芸誌に送ってみようかなと思案している。

最近は朝6時台に目覚め、起き、コーヒーとHuelをおともに13時や15時まで研究などの活動をして、疲れてお昼寝。起きたらHuelを飲んでまた作業。夕飯は遅めに適当に。23時頃に眠りにつく。そんな感じの暮らし方。

「冬のなんかさ、春のなんかね」を見始めて、とてもよいのだけれど、感想は明日以降また書こうかな。

今日はそんなところだろうか。またね。

23日 月曜日

朝5時に目覚めて寝直せなくなったので6時頃まで作業をして、眠り、8時半頃から作業。博論の書籍化に向けた加筆修正、共著論文の査読対応のためのミーティング、単著論文の査読対応をしていたら一日がほぼ終わる。あれ? 何か他にするべきことはないのか。まったくもう。

博論本はまだ出版は全然決定しておらず、これから企画会議を通過する必要と、それから出版助成を獲得する必要がある。今朝は本の各構成パーツ(部、章、節)にどんな議論を配置するかを仮決めし、目次を作り、各章の大まかな分量を推定した。書き込むべき議論はほぼ出揃っているので、あとはそれらの配置と、用語法などの調整を中心とした加筆修正作業をすればよいという感じ。よい本として出版されてほしいという、祈り。願い。望み。

あとちゃぴのプロを契約してみる(気ままなエージェント)。高すぎる! 悲しい。

日記を書くと、その日について特筆すべきことがなさすぎることが露わになるということがままあるのでピリッとするよね。激辛ではないが、何辛かな。5くらいかな?

とはいえ共同研究者兼友達と、ミーティング後に30分くらい雑談できてよかった。別の共同研究の計画も立ち上がったし。がんばろ。

眠る前にお手紙の一種を書き、就寝。

また明日。

24日 火曜日

昨夜の入眠は難しかったけれど、まあ眠れはして、今朝は7時半頃から作業。単著論文の査読対応と、博論の加筆修正を交互に。

かすかな吐き気。困り眉。

引き続き5辛。もう陽が落ちている。

21時から勉強会をしたら今日はおしまい。

わたしのすきなひとたち。わたしにすきでいさせてくれるひとたち。時折どきどきする。すきでいていいと思ってくれているばかりか、それを知っていてくれさえする。なぜ? こんなことどうしてOKなんだろうってたまに思う。今日の気持ちは普段よりポジティヴかも。そういえばポジティヴシンキングってさ、実証的思考ってことなんじゃない?

元気が出てきたので「冬のなんかさ、春のなんかね」第1話のことを書いとこうかな。第1話だけ見た感想であり、とってもよかったという話。

なくてもいい言葉が、本当に一つもなかった。映像作品を見ていてその中のすべての言葉が欠かせないとまで思うことってこれまでなかったので、とってもうれしくなった。感心したよね。

それから、自分の気に入っている言葉でしか話したくない人というのがわたしは好きで、後半に出てきた髪の長いグレーのニットを着た人は、そういう人かなって思って、よかった。(主人公もそうかもね。)わたしにも少しそういうところがあるので、他人がそうだと、なんとなくわかるような気がする。たとえばその人は、かたくなに「好き」とは言わず「惹かれてる」と言っていて、わたしは「好き!」ってなったわけ。

まだ第1話なのに大満足してしまっている。じんわりとした、暖かな、悔しさ。

感想おしまい。

勉強会中、ひとがちゃぴにジェラっていたので、受け止めた。(わたしは訳出待ち時間にちゃぴを使って研究の続きをしながら「ちゃぴのプロわたしより賢いですね」とか言っていた。)ひとは「だって、私ががんばって訳してるのに、チャッピーのこと褒め始めたんだもん」と言っている。

終わり際、「_さんを怖がらせること言っていいですか?」という前置きから、勉強会開始30分前からお風呂に入っていたことを教えてくれたのだけれど、とくに怖くなかった。

その後さらにしばらくして発覚した「今日暖かかったから半袖Tシャツを着てたんですよね」という発話のほうが怖かった。ホッカイドーと書いてあるくまのTシャツ。しかし、2月に半袖Tシャツ着ないでほしいな~と思っていたら、今日一日半袖だったというわけではないらしい。入浴後の寝間着が半袖というだけだとの供述。なるほどね? 怖くなくなった。

また明日ね。

25日 水曜日

今朝は8時半から作業開始。

最近ずっとやっていたメジャーリヴィジョンの査読対応方針を最後まで決めて、本文の改稿に取り掛かったのが18時半頃。

その前は、突然自分の研究メモを見返していて、福利の話と人生の意味の話で論文構想&簡単なアウトラインをそれぞれに作ったりしていた。そんなつもりなかったのに~。

人生の意味の話はこのあと19時半から、人生の意味をメインで研究している友達に聞いてもらうことに。けっこう挑戦的な話かもしれないという可能性があるかも。

いまはバイトを終えて帰宅したすきなひとと通話中である。21時からは、毎週水曜日に参加させてもらっているジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』を読む読書会に出る予定。

22時02分追記。人生の意味の話をしすぎたためBTMを読む会の参加を断念。まあ仕方ないよね。人生の意味の哲学の研究動向をいろいろ教えてもらう。

眠る前、ひとと歯磨きをするタイミングが同じだったことが判明し「一緒ですね」的コメントを言い合うが、細部は忘却。

また明日ね。

26日 木曜日

7時台から作業。単著論文の査読対応のための改稿を進め、第1節つまりイントロを直し終える。

そのまますぐ13時から共著論文査読対応のためのミーティング。保留したもの以外ほぼすべてのコメントへの対応方針を決定。改稿に入れるようになる。わたしがほぼ直して、共同研究者からコメントをもらって再度の改稿という予定。

それから雑談していて、共同研究者とStreumer, Bart (2017). Unbelievable Errors: An Error Theory About All Normative Judgments. Oxford University Press.を読む会をすることになる。うれしい。

今日はそんなにピリ辛じゃないかも。16時34分。特筆すべきことそんなにないのに不思議。

休憩中、ひまなのでわたしのすきなひとのことをこっそり考える。ふふ。考えてるだけなら絶対ばれないからね。わたしにどんなに勝手に思い出しまくられても1ミリも妨げるすべを持たないひとめ。

音楽は結局米津が一番なので戻ってきたかも。とまれみよ笑えないぞ酷い迷子。花火がしたいコンビニ行きたい。やがて仄かに潮の香り。いぇい。17時15分。久しぶりに米津聞いてハッピーかも。離せないんだもしも手を離せば二度と掴めないような気がして。誰も知らない見たことのないものならばいま僕らで名前をつけよう。それでもうれしいのさ君と道に迷えることが、たくさんを分け合えるのが。ハッピーで埋め尽くしてレストインピースまで行こうぜ。アイラブユー貶してくれ全部奪って笑ってくれマイハニー。ラッキーで埋め尽くしてレストインピースまで行こうぜ。よい子だけ迎える天国じゃどうも生きらんない。泣いて泣いては僕は生まれた、靴ばかり見つめていた。君のいない人生を耐えられるだろうか。どこで誰と何をしていてもここじゃなかった。生きていたくも死にたくもなかった。いつも遠くを見ているふりして泣き叫びたかった。これらも、すべての言葉が不可欠だ。

米津の楽曲制作ペースをわたしの論文執筆ペースによってわずかでも上回ってみたいよね。こっそり目標にしている。なんなんだこの欲は。あまりにくだらない願いが消えない。誰にも奪えない魂。鼻先が触れる呼吸が止まる痛みは消えないままでいい。あまりにくだらない願いが消えない、止まない。日記を書きながら音楽を聞きながら徐々に元気になる人としてのわたし。いま人生で一番調子がいいんじゃない?

調子がいいので改稿の続きをして、第2節までほぼ完了。20時50分じゃん。もう今日は終わってもいいかも。ちゃぴが推論し始めて帰ってこないので休憩時間として、日記の続きを書く。もう眠いね。また明日かなあ。シャワーに抵抗する傾向性と眠たげな理性との戦いの行方を見守るわたし。理性がギリ勝ったので無事清潔な身体を得て、22時前、就寝、入眠へ。また明日ね。明日も今日くらいいい日だといいね、ハム太郎!

27日 金曜日

朝5時に目が覚め、5時半に起きる。眠いけれど、寝直せそうもないので活動を始めてみる。

しばらく作業。原稿を書いていて、日本語の「自己防衛」という言葉には個人的ニュアンスがあるのに対し、「自衛」は集団的でもよい言葉であるか、何なら集団的ニュアンスのほうが強いまであるような気がするなと思った。それはそうと「自衛隊」という名前の軍人集団って本当に意味がわからない名づけだなという唐突な再確認(n回目)が発生した。

わたしたちは多種多様な物質の出入りする場だけれど、なんか時間的にも空間的にもまとまりがある。そこに同一性はあるの?ないの?というふうに、人の同一性の問いを位置づけてもよさそう。精神までいかなくても身体の時点で十分不思議な、わたしたち。

会話。

人:「人は通時的に同一なの?」
パーフィット:「同一性は重要ではない」←聞いてない

改稿は第3節の前半まで完了。朝9時。その後、第3節全体が改稿完了。12時03分。これで後半の実質的議論に入れるかも。

13時頃に、わたしが明日イベントでコメント、レスポンスをする予定の3つの発表が出揃ったので、内容を考えて、スライド作り。15時半までに終える。早めにできてよかった。お昼寝。

目覚めて、スライドを眺めていたら修正点を思いついたので、起き上がってPCの前に移動し、いくつか修正。けっこういい感じだ。

ひとと作業通話。Streumer (2017)のPrefaceと第1章を読む。メモ:逃げ恥を見ること。「私は恋愛のおいしいところだけがほしいんです」の話。

そうしてからシャワー。そうして改稿の続き。新規で書かなくてはならない第4節をまだまだ書き終えていないが、今日はおしまい。また明日~。

28日 土曜日

7時半から活動開始。原稿執筆とか、今日のスライドを少し直したりとか。

今日は13時半からトークイベントととシンポジウムの中間、ワークショップの仲間みたいな場所で(つまり人前で!)話をする予定。持ち時間は15分間。その後全体でトーク。緊張してるかも。

無事終わり、夕方頃帰宅し、それから5時間半くらい原稿執筆。時間溶けすぎでは。

執筆←イベント直後に5時間半やることではなさすぎるもの。

乙←1画で書いたらめんどくさがりって思われないか一瞬心配になる字。
己←1画で書いたらめんどくさがりって思われないか一瞬心配になる字。

乙←一瞬心配するけど、いや1画だよなって思って1画で書く字。
己←一瞬心配するけど、まあいいかって思って1画で書く字。

22時半頃からシャワー。そしていま、23時06分。もう寝てもいいかも。

明日は東京! おやすみ。

追記。午前1時26分。察してほしい。

3月1日 日曜日

7時頃起床。9時頃まで仕事や家事をする。それから大学に立ち寄りつつ最寄り駅へ向かい、さらに東京へ向かう。移動中は長さと比率と無の固有性と認識の可能性の条件と世界モデルと倹約性のことを考えていた。

13時頃まで新宿で時間を潰して、友達と合流、買い物、移動、[勉強会と散歩の和]、ご飯、カラオケ。久しぶりにたっぷり遊べてよかった。

買い物は、わたしは素敵なピアスを購入。ひとは指輪二つなどを購入。左手の小指、右手の人差し指、右手の薬指にさっそく付けていた。二つの指輪を三本の指に付けるにはもちろん工夫が必要だ。たとえば、二つセットの指輪を購入時には一つの指輪としてカウントし、付けるときには二つにばらすなど。どの指輪もよかったし、指輪をはめる指を両手から三本、順序ありで選び出す仕方もよかった。

散歩は、図書館の敷地内の公園で二人で一休みしていたら、すぐそばにガンジーの像があった。「なんだかこの人の顔はガンジーに似ているなあ」と思って足元の案内を見たらガンジーご本人だったという経験。

ひとは自分の両手指を見て満足そうであり、わたしもうれしかった。あと一年のうち自分の手は今頃が一番白いのだと言っていて、一日のうち未明が一番冷え込むのと同じメカニズムだな、とわたしは思った。ゴールドが似合うのではと別の友達から言われたことがあるそうだけれど、わたしはシルバーのほうが似合うと思う。

そのあとひとは自分のインスタグラムのアカウントを見せてくれて、一つのポストに大量の文章が連なっているのでわたしは数分間に渡りずっと面白かった(みんなに見てほしい)。真似してみたい。インスタってそんな文字量書けるんだね。ひとは素敵な人物なのでみんな素敵だと思うのが自然(←もうみんな思っているので言うまでもない)。

それから「わたしのいる部屋に必ずいられるのはわたしだけ」という一見受け入れられそうな文(1)にとって「わたしの身体の一部」が反例とならないようにするためには「わたしの身体の部分はわたしと同一だ」という文(2)が受け入れられている必要があるが、文(2)を例とする原理の別の例の中には「素数の集合は自然数の集合と同一だ」という文(3)が含まれるため、文(3)の受け入れがたさからすると文(1)は実は受け入れがたいのだと考えなくてはならない、という推論をひとに伝える。だが、ひとは文(2)を最後まで放棄しなかったため、わたしたちは文(1)を受け入れるべきであるか否かに関して合意に到達しなかった。

カラオケは、ひとが「さよーならまたいつか!」を歌ったので、隣にいたわたしはMVの米津とタイミングを合わせ、ひとに体を向け、横ピースをした。その後、リクエストを受けたため追加で2回した。都合3回の横ピース。

実家に帰宅すると23時半頃であり、眠る支度を済ませてから母としばらく会話をし、25時頃に就寝。おやすみ。

3月2日 月曜日

7時頃起床。10時から読書会開始と見せかけて雑談。

14時からはStreumer (2017)のPrefaceと第1章の読書会(感想交換会)。

夕方から5時間くらい父と会話した。そして夕飯。それから2時間くらいすきなひとと通話。

入浴と就寝。ぼんやりぶどう。今日もよく人と話したかも。また明日ね。

囲碁練習記 Day 14

14日目。これまでの練習記の一覧はここにあるよ。
https://yu-9998.hatenablog.com/entry/2026/01/20/104716

ちなみにしばらく対局はしない予定。

限定的な練習時間しか用意できないので、そのほとんどはしばらくは手筋の勉強に充てて、たまーに気づいたことや考えたことを少しだけここに書き留めるというスタイルでしばらく続けようかなと思う。

2026年1月22日(木曜日)

ゲタか、シチョウか、ユルミシチョウか、またはそれらの複合かをうまく選んで組み合わせて使うと、黒が白を取れるよ~という趣旨の問題を解き続ける。全部で34問あった。終えた。

ユルミシチョウの精神はゲタ

ユルミシチョウって、いわばゲタで封じ込めた相手の逃げ道(ダメ)の一つにシチョウの形が成立しているということであり、つまりその名に反して実質的には、どちらかと言うとゲタの一種なのでは?

12日目にメモしたように、ゲタは封じ込めであり、シチョウは追いかけである。それでいうと、ユルミシチョウは単にシチョウの形を内包していたり、手順の変化がシチョウに似ていたりするにすぎず、むしろ精神としてはゲタに近いのでは(というかゲタそのものなのでは)とわたしは思い、そう思ったらわたしはユルミシチョウを完全に理解した気がした。

言い換えるとユルミシチョウは「見た目はシチョウ、精神はゲタ」ということ。

こう言ってもよいかも。シチョウにおいては相手のダメの数は(自分の手の直後のタイミングにおいて)つねに1であり、ゲタにおいては相手のダメの数は大抵2以上である。(※1の場合もゲタと定義されうるのかは知らない。つまり、アタリであって、かつ1手逃げてもアタリであり続ける場合ね。)そしてユルミシチョウの場合、相手のダメの数はつねに2以上である。ということは、ユルミシチョウを分類するならば、ダメに数えるほうが自然なのではないか? という感想。

ゲタの不成立条件、石の寿命

問題を解いていてふと気づいた法則というか、ゲタを狙う場面でつねに考慮するべきだと思われることを発見。

  • 相手の石(白とする)を取ろうとするときは、取るのに必要な黒石が白によって(白の作りうる手筋込みで)取られるまでに必要となる白番の手の数を、気にかけなければならない! その数がnだとすれば、黒が狙うゲタは、取りたい白石のダメがn個以上になってしまう場合には、おそらくつねに成立しないのである。
    • こうしたnのような数、つまり「黒石が取られるまでに必要となる白番の手の数」に名前があるといいな。
    • 「手数」という囲碁用語は厳密に見てこの数値のことなのか?(簡単に調べた限りではそれでよさそうだった。)
    • しかし、「黒の手数」という言い方は、黒番が白石を取るまでの手数なのか、黒石が白番に取られるまでの手数なのかが一見わかりにくい。
    • うーん。自分で考えるときは「黒石の耐久値」と呼ぼうかな。「寿命」とかもいいね。寿命にするか。
  • 例。①黒番の作った「一見ゲタに見える形」が、白石に3個のダメを残すような(白石の寿命が3となるような)薄い包囲であるとする。②また、その白石と一蓮托生であるような(しばしばすぐそばの別の場所の)白石が、その一蓮托生となっている白石全体を取るために必要となっている黒石と接しているところ、その黒石には断点があるとする。④そして、もしその断点に白石が置かれると、黒石に2個のダメを残すような白のゲタが成立するとする。これらがすべて真である場合、黒番の作った「一見ゲタに見える形」は、実際にはゲタとして不成立である。
    • もちろん④は、より抽象的に事例を設定するなら「もしその断点に白石が置かれると、そのタイミングで、その黒石が取られるまでに必要となる白番の手の数(黒石の寿命)は2以下となる」と表現すればよいだろう。

これ悪手じゃない?

教科書に載っている問題の正解手順に含まれている相手の手が悪手になっている気がするという話。

引き続き、相手(白)の石を取る手筋の問題を解いている。ある問題の正解図で、ユルミシチョウをされつつある白の逃げ方が、途中で黒に都合がよくなっているように思われた。このタイミングでは、その白石の死はもう確実に見えている(問題なので当たり前?)。このときわたしの考えでは、白はもし、別の位置(具体的には一つ上の位置)に石を置いてすぐそばの黒3子にアテたならば、それにより黒は対応を強いられ、するとまたもう1手、白は石を置いてアタリを作ることができ、するとまた黒は対応を強いられる。ここまで手を進めると、結局その最初にユルミシチョウをされつつあった白石の死は動かないのだけれど、そのさらに上部(盤の上辺にあたる)において、地を作っていた他の白石に、いま置かれた白石が2子(次の可能な手も含めれば3子)追加で連絡してくれる様子である。つまり白は、①死が確定した自分の石を利用して、白の地を増大させるということができそうに見えたのである。このとき白番は、おそらく大抵は、②この局面を放置して、コウ材に使えるようにとっておきつつ別の大場などに先着するという選択肢のほうが最善だろう。白がそこに変に手を入れると黒石が強まってしまうという考慮もありそうだ。とはいえ他方、白の追加の3子によって白の地が広がるということもまた、対局全体との関係において一定の価値を持ちうるだろうから、①と②の二つは、どちらも一定の考慮に値する選択肢だと言えるかもしれない。さてところが、③教科書の正解図に載っている一手を打つという白の選択は、それら二つのいずれでもない。その手はわたしには、白の資産をまったく増大させることなく黒の資産をのみ増大させるような抵抗を1手多く行なうことで、ただ黒を利するだけの行動に見える。もちろんこの教科書は、対局全体の考え方ではなくただ単に手筋の勉強をするための問題を載せているのだから、白が生存だけを目掛けて悪手を打つ変化も載っていてよいとは思うのだけれど、ここまで解いた他の問題は、その類の悪手に見える手が正解図には含まれていないものばかりだったと思うので、そういうこともあるのだなあ、という感想をわたしは持った。

手筋の本、英文法の本

いま読んでいる手筋の教科書を英文法の教科書にたとえると、たとえば関係代名詞入りの簡単な例文とその和訳のセットだけをいくつか見せられて、関係代名詞のルール自体は自分で抽出させられている、って感じがするね。笑

〜〜囲碁の教科書〜〜

ユルミシチョウとはこれです。

図。

解説終わり。

問題です。白を取るには?

図。

正解はこれです。

図。

解説。ここではユルミシチョウを使います。

解説終わり。

(※念のため注記すると、さすがにこれよりは丁寧ではあるからね。)

〜〜こんな英語の教科書は嫌だ〜〜

目的格の関係代名詞whichとはこれです。

例文。The watch which I bought is very expensive.

訳文。私が買った時計は大変高価です。

解説終わり。

問題です。以下の文を訳してください。

There is a book which I read yesterday on the desk.

正解はこれです。

「私が昨日読んだ本が机の上にある。」

解説。ここでは目的格の関係代名詞whichがポイントです。

解説終わり。

思ったこと。囲碁が超強い人(プロの棋士とか)って、英語が第一言語である人みたいな人々なのかな? わたしとかは第二言語として囲碁やっているんで、ぜひそれを考慮して教科書を書いてほしいな!

最後に理論修正も! 剪定権について

理論の修正も思いついたよ。メモしておく。

盤面の変化可能性の枝を剪定する権利、というものを考えた。これをわたしは剪定権と呼ぼう。黒番は、つねに白番に先んじて(したがって白番よりつねに1回多く)この剪定を行うことができる点において、相対的に大きな剪定権を持つ。剪定は、実際の盤面の今後の変化可能性を、①自分の研究してきた変化可能性集合へと大まかに方向づける働きを持つこともできれば、②相手が研究してきた変化可能性集合から相対的に隔たった変化可能性集合へと大まかに方向づける働きを持つこともできる。これらの働きの価値を説明するには、剪定権を資産の要素に数え入れるのが自然である。変化可能性の枝の剪定ゲームとしての囲碁

剪定権は第三層資産でもないし、第二層資産でもないから、いまのところは第一層資産に数えるのがよいと思う。ただしこれは、相互の計算量という第一層資産に対する干渉権としての働きをも持つと言ってよいから、厳密には第一層資産に数えるのは座りが悪いとは感じる。この点は今後の課題かな。

つまり、わたしの枠組みは、今日のところでは以下のようになっている。

  • 第一層資産(最も抽象的な資産)。
    • ①(ある特定の石を置いた直後における)盤上にあって死んでいない自分の石の数。手番ごとに1ずつ増加するが、石が死んだり取られたりすることによって、減少する。
    • ②自分の主導権(時に先手と呼ばれる?)。相手の置いた石に対応させられるのではなく、逆に自分の置いた石に相手を対応させる権利。あるいは、自分が先んじて行動する権利。対局開始時に黒番に無料で与えられる。初手以降は、相手が後手を引くこと(ミスを含む)や、自分があるローカルな局面を無視すること(手抜きと呼ばれる?)などによって得ることができる。
    • ③プレイヤー双方に対して(その手以降に)求められる計算量。相手の計算量は自分の資産(または相手の負の資産)であり、自分の計算量は相手の資産(または自分の負の資産)である。
    • ④剪定権。盤面の変化可能性の枝を剪定する権利。対局開始時に黒番に無料で与えられる。その後は、両者が1手ごとに交互に有することになる。
  • 第二層資産(中くらいの抽象度の資産)。
    • 盤上の自分の石の並びの強さ。厚みや勢力と呼ばれる? この資産を評価する方法、増大させる方法こそが、これまでの囲碁プレイヤーたちによって膨大に蓄積されてきているのだと思う。わたしもこれを勉強してみたい。定石、手筋、布石……の諸理論。
  • 第三層資産(最も具体的な(最も抽象度の低い)資産)。
    • 確定した目数。実利と呼ばれる? この得点に照らして直接的に勝敗が定まるので、これが最も具体的である。
  • 第一層資産と第二層資産の価値は、第三層資産(つまり最終的な目数)に換算して考えることができる。もちろん固定的な換算レートなんてものはなく、レートは一定の幅を持ちつつ曖昧である。
  • 以上の枠組みに基づいた、囲碁のゲーム性の記述。
    • 双方のプレイヤーは、第一層資産を第三層資産へと、できるだけ高い効率で変換することを目指す。つまり、曖昧な変換レートを上手に制御して、できるだけ高い変換レートで、できるだけ効率よく、抽象的資産を具体的資産に変換することがプレイヤーには求められる。これは、上手に囲碁を打つということの一つの有望な理解であるように思われる。
      • ここでは抽象度のレイヤーは三層と想定されているから、その変換は二段階からなる。
      • その変換の効率をいかに高くするかにプレイヤーの技術(棋力と呼ばれる?)が出るのだと思われる。
    • そして、各抽象度の資産における「その資産を相手よりも多く持つ度合い」を、わたしはアドバンテージと呼ぼう。名前があると便利なので、第n層資産におけるアドバンテージを第n層アドバンテージと呼ぼう。
    • 資産が目数で換算できるとすれば、アドバンテージも目数で換算できる。囲碁のゲーム性はこのアドバンテージの概念を用いて、よりよく表現できそうだ。
      • 黒番であるがゆえに最初に与えられるアドバンテージ(黒アドバンテージと呼ぼう)は、目数換算で6目半と見積もられており、この見積もりがコミの根拠となっている。
      • 黒アドバンテージは以下からなる。
        • ①(ある特定の石を置いた直後における)盤上にあって死んでいない自分の石の数が、相手よりもつねに1だけ多いこと(石が死んだり取られたりしない限り)。
          • ①の価値(おそらく目数として大まかに換算可能)は、序盤から終盤にかけて基本的には単調減少していく。なぜなら、最序盤の「黒2子:白1子」のときは黒番が最も強いが、時間が経って「黒25子:白24子」などになってくると、その比率におけるアドバンテージは減少し、最後にはほとんど誤差のようなものになるからである。
          • 比喩的に言えば、①の黒アドバンテージは、時間経過とともに希釈されるのである。
        • ②無料で与えられる最初の主導権。
        • ③無料で与えられる最初の剪定権。
          • こちらの価値も、序盤から終盤にかけて基本的には単調減少していく。なぜなら、盤面の変化可能性の枝を最も効果的に剪定することができるのは初手であり、ある手により剪定される枝の本数——つまり、その手が盤面の変化を方向づけることができる度合い——は、対局の進行とともに基本的には単調減少しそうだからである。
          • したがって③の黒アドバンテージも、時間経過とともに希釈されると言える。
        • これらがどれも第一層アドバンテージであるという点は重要だろう。
      • そこで、囲碁のゲーム性の別の記述が次である。黒アドバンテージを構成する第一層アドバンテージを最後まで具体化した第三層アドバンテージ(目数を相手より多く持つ度合い)が、6目半を超えれば黒の勝ちであり、6目半を下回れば白の勝ちである。つまり、黒番は6目半相当の(第一層)黒アドバンテージを、7目以上の第三層アドバンテージに変換すれば勝ちであり、白番はそれを6目以下に留めさせれば(もちろん勢い余って負の値にさせてもよいが)勝ちである。
        • 上で見たように黒アドバンテージは時間経過とともに希釈されるから、黒番は、黒アドバンテージが希釈されすぎて誤差のようになってしまう前に、適度に急いで、6目半ほどと見積もられる黒アドバンテージを7目以上の第三層アドバンテージへと具体化することを目指す。反対に、白番はそれを妨げ、黒番の有する黒アドバンテージをできるだけ具体化させないということを目指す。囲碁っておそらく、このようなゲームとしてけっこう上手に理解することができるのではないか?

理論もしくは枠組みの現時点でのまとめおしまい。

おわりに

というわけで、ゲタとシチョウの問題はすべて解いた! いぇい。

今日はおしまいかな。

囲碁練習記 Day 13

13日目。これまでの練習記の一覧はここにあるよ。
https://yu-9998.hatenablog.com/entry/2026/01/20/104716

ちなみにしばらく対局はしない予定。

限定的な練習時間しか用意できないので、そのほとんどはしばらくは手筋の勉強に充てて、たまーに気づいたことや考えたことを少しだけここに書き留めるというスタイルでしばらく続けようかなと思う。

2026年1月21日(水曜日)

今日は仕事もあるので手筋の本はそんなに読めないかも。ぼんやり。

でも少しだけいい話っぽい話も考えたよ。それだけ以下にメモしておく(とくに後半の話ね)。

強そうな見合いを空想

これはただ空想したことのメモ。強そうな見合いのことを考えていた。

白がすでにしばらく前にシチョウを作っているとする。黒は困っている。まずこのタイミングで、そのシチョウにとってのシチョウアタリになる黒石を遠くにこっそり置いて、もしそれが気づかれなかったら、黒番はシチョウを台無しにできて強いよね。ここまではまあちょっとは強いけれど、とはいえ白番が普通に上手なら対応されておしまいになる。でも、そのシチョウアタリの黒石が同時に、1手後の黒の手筋(仮にウッテガエシだとしよう)の完成を準備、予約することもできていたらとっても強くない? この場合、次の二つの事情が成立するはず。

  • まず①白は、一方ではウッテガエシを未然に防ぐ必要があるからその急場に石を置く必要がある。しかしそうすると黒は、シチョウが崩れたので、その黒石を救い出すことができる。
  • そこで次に、②白は他方では、シチョウがただのアタリになったのだから、黒石を取るためにはそちらの戦場に石を置いて実際に黒石を取る必要がある。しかしそうすると黒は、ウッテガエシを成立させて、遠くの戦場で白石を取ることができる。

こうしてそのシチョウアタリの黒石を置く手は、白番に対し、シチョウを本当に崩されるか、ウッテガエシを成立させられてしまうか、という二者択一の選択を迫ることができていると言えそうだ。黒番はとってもハッピーだ。これってつまり、もし成立すればまあまあ強いにもかかわらず事前には一見気づかれにくそうな見合いの手、ということだよね。こういう手を打ってみたいなあ。

ところでこのような場合って、白番が黒番のその見合いの手が打たれてから見過ごすというのではなく、その1手前、その見合いの手を黒番がすぐにでも打てる状況にあるという事実に気がつかずに(たとえば、その黒の手の位置などに白石を先に置いたりなどせずに)別のどこかの大場などに石を置いたとしたら、その瞬間、AIによる評価値はぐーんと下がるのかな? そして、黒番によるその見合いの手は、白番の手を咎めているということになるのかな?

そしてまたこの石を、咎めとしてではなく、何手も前から白番に最善手を打ち続ける一本道を強いた上でそっと置けたら、とっても、とってもかっこいいね! 夢見。

あとこちらの場合って、AIの評価値はどういう挙動になるんだろう? その一本道を黒番が開始させる1手前に白がそれを防げない位置に石を置いた瞬間に黒番の評価が上昇して、見合いの手やその数手後まで黒が最善手を置き続けたタイミングでその分の評価が確定する、という感じかなあ。

価値がありそうに感じる手の価値の説明

手抜き、大場と急場、ギリギリまで対応を我慢してその間に価値のある手を打つか、それとも早めに対処して後手を引くか、わたしはどちらが向いているかなあ、みたいなとりとめのないことをぼんやり考えていた。

それで思ったのだけれど、たとえば2手後に自分の石に対するシボリが成立させられる状況にあるということが読めているとする。こういったときに「放置しているうちにミスったり細かな状況が変わったりして読みが狂って絞られてしまうのが嫌すぎるので、たぶん1手早い気がするけど守ります!」みたいな手には、わたしの感覚では、何らかの一定の価値があると考えるほうがよさそうだ。

しかしそのような慎重な手の価値は、目数換算では一見、評価が難しそうだ。というのも、純粋に盤面の資産価値をのみ評価するならば、そうした慎重な手は(基本的にはそれにより後手を引くように思うので)よい手であるとは考えにくいからである。では囲碁理論は、そうした慎重な手には、しかし何らかの一定の価値があるはずだ、という否定しがたそうな現象に対して、うまい説明を与えることができたほうがよいのではないか。ここには理論的課題がありそうだ。

ということで、続けて同時に考えたこと。そうした慎重な手の価値は、わたしが9日目の練習記にメモした、計算量という要素を第一層資産の構成要素に含めるという理論修正によって、いい感じの説明資源がすでに用意されてきていたのではないかというような気がする。すなわちそうした慎重な手を、主導権という第一層資産と、自分の計算量の減少分という第一層資産との間の交換、売買を行う手として理解するのである。

あれ、そうか。第一層資産と第一層資産とのトレードによってその源泉が理解、説明される手の価値、というのはもしかしたら、いまわたしが認知している限りでは、いま考えているような手の他には例がないかも? なんか珍しいやつかも~。

これより詳しい説明は手間がかかりそうなのでこのくらいのメモに留めるけれど、わたしの感覚では、たぶんこれで上記のような手の価値はけっこう上手に説明がつくような気がする。つまり計算量の要素は、「研究外し」の手に価値があることなどに加えて、また別の現象の説明能力をも備えているのではないか、ということである。

今日はおしまい。

囲碁練習記 Day 12

12日目。これまでの練習記の一覧はここにあるよ。
https://yu-9998.hatenablog.com/entry/2026/01/20/104716

ちなみにしばらく対局はしない予定。

限定的な練習時間しか用意できないので、そのほとんどはしばらくは手筋の勉強に充てて、たまーに気づいたことや考えたことを少しだけ(えっ?)ここに書き留めるというスタイルでしばらく続けようかなと思う。

2026年1月20日(火曜日)

今日は手筋の勉強。

昨日に引き続き、使う教科書はこれ。日本棋院『めきめき上達シリーズ3 巧みに華麗に 手筋で決める』日本棋院、2015年。https://www.nihonkiin.or.jp/publishing/books/mekimeki_tesuji.html

  • 紹介文によると「手筋はあらゆる分野に存在しますが、本書は「石を取る手筋」に焦点をしぼりました。対象は級位者」とのこと! それから「問題数は、全140問。解いていくうちに、パターンをつかめるでしょう」とも。
  • ぱらぱら見ているけれど、たしかに問題がたくさん入っているね。ほぼ問題と解説によって構成されている本だ。
  • 第1章は「シチョウとゲタ」。

がんばろ。

手筋の問題をいくつか解かされていて気がついたけれど、ゲタとシチョウって択になっているんだね。うすーく囲って封じ込めて取るか、追いかけてどこかに衝突させて取るか。そして、各々が有効(最善)となる形はけっこう似ているので、どういう形のときにどちらがよいのか(もしくは取るために必須なのか)を事前に学んでおくと、対局中に相手がミスしてゲタまたはシチョウで相手の石を取れそうな状況が生じたときに楽ができる(ミスしにくく、時間も節約できる)という……。ゲーム性を完全に把握!

ちょっとだけ文句。上のような理解は(もし正しいなら)専門家は自明の理だという位置づけで持っているはずだと思うけれど、わたしの読んでいる教科書にとくにそのような趣旨のことが書かれていないのはなぜなんだろう。「自分で気づけ」方式は学習効率が悪くないかな?

  • ゲタとシチョウの眼目もそれぞれ「うすーく囲って封じ込めて取るか、追いかけてどこかに衝突させて取るか」みたいな抽象度の高い形で明示的に教えてほしかった(昨夜ともだちが理解を手伝ってくれたのでやっとわかった。自分だけではたぶんよくわからなかった)し、
  • 「ゲタとシチョウの各々が有効(最善)となる形がけっこう似ている」ということも、これくらい抽象度の高い形で明示的に教えてほしかった。

まあいいけど!

石を取る手筋、ダメの数の価値、闇の魔術

教科書を読んでいて、石を取るための手筋は、相手の石のダメの数の価値を引き下げる技なのだなあという理解を得る。

局所戦が始まったとき、お互いの石の塊が持っているダメの数を数えて比較するという技は、対局しながら思いついてこれまで勝手に使っていた。相互の石のダメを数えて、数が勝っていたら取れると判断して攻めるとか、自分の石が死にそうになっているときも、自分の石のダメの数が相手の石と同じになるまでは放置してOK!という(とんでもない)思考をしていた。(とんでもなさすぎる。)

  • 一応の言い訳:わたしは急場は大場に勝るという原則は受け入れていたが、「急場ではあれ放置しても間に合う状況でもっと価値のある場所に打たなかったらとっても損だ(というのも一般に手の価値は対局が進行するにつれて目減りする傾向があるかなと思うので)」という考え方から、わたしは急場を、ぎりぎり守れるタイミングになるまでは放置してかまわないという方針でプレイをしていた。
  • 言い訳に対するコメント:いま思うと、これは手筋を勉強していない人が採用してよい方針ではなかったように強く思われる。(この方針そのものは受け入れてよさそうだとは思うけれど。)

こうした考え方の何がいけなかったかを端的に述べるなら、つまりこういうことだろう。相手の石のダメの数の価値を効率的に引き下げる技術、自分の石のダメの数の価値がそのような技術によって効率的に引き下げられることがないように対策する技術、その対策を妨げる技術……(という調子で階層が上昇していきそう)というこれらがそもそも存在するという考え方そのものを、わたしは持っていなかったのである。

(石を取る)手筋の勉強って、そうした技術をこそ学ぶことなのか?

唐突なアナロジー。闇の魔術に対する防衛術の時間に、実質、あの子たちは闇の魔術を学んでいたじゃん? そういうことだよね。相手が闇の魔術を使ってくるならば、こちらがそれから身を守るためには、こちらも闇の魔術をこそ学ぶ必要があるという話。しばしば攻めと守り(凌ぎ?)というのは双方まったく同じ技術に基づいて行われているという法則、が世の中にはありそう。

というわけで、ダメの数の価値引き下げ術としての手筋をきちんと勉強しよう~と思った。くるーしお!(ゲタ)

ちょっとうれしかったこと

高尾紳路『新版 基本定石事典―下―(星・目外し・高目・三々の部)』(日本棋院、2010年)が届いたので「はしがき」を読んだら、わたしが2日目に立てた仮説に相当する考え方が前提となっている記述と、5日目頃になんとなく把握したことが端的に表現された記述、それから9日目に考えたことの前提になっていた考え方が端的に表現された記述、という三つが書いてあって、わたし間違っていなかった!という気持ちが強まった。一つ目の点についてはすでにともだちが好意的に見てくれていたので、それで十分ではあったけれど、十分から十二分くらいになったかも?

その記述というのは、順に以下。(ページ番号は「はしがき」には振られていなかった。)どれも囲碁の世界では当たり前の真理なんだろうね。

星と三々は、隅の左右対称の地点である。小目や目外し、高目と異なりシマリがない。逆にいえば隅を一手で打ち切っている。 一手で打ち切っているから、シマリを省いて大場に展開できるという、足の早い特質を持つ。

おなじ一手で隅を打ち切る星と三々ではあっても、位の高い星は発展力に富み、三々は一手で隅を確保するという地にからい性質を持つ。短所は、星が地に甘い点、三々は相手から圧迫されやすいという点になる。

上巻でも記したが、定石はあくまでも部分的に互角というワカレを指す。全局的配石によっては、評価が変わる。定石選択を誤れば、部分的に互角ではあっても、全局的には有利不利が生ずる。 この点は重ねて記しておきたい。

わたしが2日目に立てた仮説は「主導権には価値があるのではないか」というものだった。一つ目の引用にはある一手の有する「足の早い特質」には価値があるという前提があるだろうけれど、これは「主導権には価値がある」という考え方にほぼ相当するだろう。

わたしが5日目頃になんとなく把握したのは、一方では星は隅や辺のテリトリーの確実性を高める働き(第二層資産の第三層資産への変換を進める働き)が弱い代わりに、中央に対する効力(第二層資産の増大に対するある仕方での貢献能力)が強く、他方では三々や小目などについてはその逆が成立するっぽいぞ、ということだった。二つ目の引用中にある星と三々の長所と短所に関する考え方は、このことを端的に表現しているように見える。

わたしが9日目に棋譜並べをしながら(山下先生の3手目について考察する中で)考えたことは、もし黒番が3手目で、初手の対角線上の反対側において三々定石を始動させたならば、その行動は初手5五によって黒番がすでに開始させていた黒番のゲームプランとあまりにも折り合わないよなあ(だからそんな手を打たないのは当然なのだろう)ということだった。わたしのこの考え方の前提にはまさに、三つ目の引用中において端的に述べられている「定石選択を誤れば、部分的に互角ではあっても、全局的には有利不利が生ずる」という考え方があったと言えそうだ。

おそらく以上の対応関係は成立しているのではないかと思う。励みになるなー。

ところで「位の高い星」とか「地にからい」「地に甘い」「足の早い特質」みたいな言い方、とってもかっこいいね。真似したら変かな?

考えごと

  • 執筆においてたとえば冗長な表現を採用する理由がケースバイケースで時々はあるのと同様に、囲碁もたとえば愚形を含んだ形を作る理由がケースバイケースで時々はありそう。
  • 囲碁用語、囲碁の世界の概念の中で、現時点で一番お気に入りかもと思うのはなんだろうと考えていたけれど、いまのところ「あまし」かな。
    • 自分の採用するゲームプランとしてあましが好きかどうかはまだわからないけれど、この概念そのものはなんか好きかもと思う。わりと複雑な話がわずか1語にぎゅっと詰まっていて密度が高いというのが一つの理由かもしれない。それからプレイヤーの重要な好み、根本的な考え方、心構えないしスタンスみたいな(気を抜いたらぼやっとしかねない)ものをかなり端的に言い表しているという感じがするから、というのもあるかも。
      • 誇張して言えば「あなたは誰ですか」という質問へのしっくりくる回答というのが仮にあるとして、それを形作る主要な部分の一つになってくれそうな感じがするよね。
      • 「あなたは誰ですか」「わたしあましが好みなんです」という会話。笑
    • 次点で「味」もけっこういいね。
    • その次は「厚み」とかかなあ。
  • 7日目で、これが備わっていたらかっこいいなあと思ったもの、「自分が対局した棋譜をあとから記憶だけを頼りに再現できる能力」について。もちろんいまだって、とくに序盤は、大体どのあたりに置いて、置かれたかは、対局後すぐならなんとなく思い出せる。自分の置いた石もわりと思い出しやすい(なぜならまさにその盤面を凝視しながらいろいろ考えて、理由を持って置いたはずなので)。でもたとえば相手の受けがケイマだったか大ゲイマだったかとかは、序盤でもわからなくなりそう。
    • と、Geminiに言っていたら、覚え方のコツをアドバイスしてくれた。わたしの理解としては、たとえばこちらがカカったとして、①相手にケイマで受けられたら「守銭奴~」と思い、②大ゲイマだったら「楽天家だなあ」と思ったりしておく、という記憶法。これ、いいかも!
    • 普通に、プレイの上達にも寄与してくれそう!
  • そう考えていて思った考えごとの続き(いまから自明の理を言います)。
    • そう考えると、囲碁の対局と、文章(またはその執筆)とのアナロジーは見かけより強く成立しているかもね。
    • というのは、いわゆる時間と同型の秩序が成立しているところがそっくりである。
      • 対局も執筆も、最終的な生産物においては複数のユニット(手、語)が分岐せず一列に並んでいて、かつ方向がある。さらには、どちらも成果物を構成する主要な要素が、一本の列とその向きという二つの他にはとくになさそうだ。
        • 棋譜ってものが可能なのは、まさにこれらの特徴のおかげだね。
      • この時間との同型性はわたしたちにとってかなり言うまでもない当たり前のことだと感じられるだろう。というのも実際、わたしたちは対局も文章も、単に時間と同型であるという理解を持つことができるというだけではまったくなく、それらを本当に実際に時間の流れがあるものとして現に経験するのである(そのように経験しない主体もいてよいが、かなり珍しいと思う)。
      • 加えて、生産過程(対局中、執筆中)もそっくりだ。生産過程においては、対局と文章はどちらも一列の構造ではなく枝分かれする木の構造を備えており、この点でも対局と文章は時間と同型の秩序を備えていると言えそうだ。
      • それから、どちらの生産過程もわたしたちは、本当に実際に時間の流れの中で行なっているものとして現に経験している(きわめて例外的な、ほとんど単に想定可能であるにすぎないようにさえ思える経験主体を除けば)という上記と同じ点も、なお成立しているようである。
    • いまの話の含意でしかないが、生産物に著者と読者がいる点もそっくりだね。
    • そう思うと手抜きって、改行して段落を変える行動っぽい感じがするね。
    • どうでしょうか。
    • 異なるのは、たとえば著者が二人いるか、一人きりであるかとか。そこまで揃えたければ、語単位のリレー小説みたいな執筆方法による文章を考えれば揃わなくもないけれど。

手筋の問題解くのサボってこんなメモをね、つい書いてしまう……。

今日はおしまい。

囲碁練習記のまとめページ

2026年1月9日に囲碁を始めてみた。上達に向けた試行錯誤の記録をつけ、メモを残してみる。わたし、対局自体もさることながら、囲碁に関して気づいたことや学んだことを文章にまとめて記録することもかなり楽しいと感じる。

メモの内容としては、①囲碁の一般理論の自作と手直し、②自分にあった手順の覚え方の考案、③覚えた定石やそのパターンを選ぶ基準の考察、④覚えた手筋を支配していそうな抽象的法則の抽出、⑤プロ棋士の対局の棋譜並べ、⑥自分の対局に関する振り返り、⑦そのほか囲碁についてぼんやり考えたことのメモ、……など。

幸運にもすでに11日間に渡って練習を続けられていて、毎日記録を書いていたら数が多くなってきてしまった。

そこでブログ内にまとめページを作ることにした。それがこのページ。

練習記一覧

わたしの7日目のメモによれば「囲碁を理解することは、何もない空間に言葉を置いていくことだという感じがする」。

そして「これは囲碁そのものと似ている。囲碁は何も無い盤面に石を置いていくことだから」。

囲碁練習記 Day 11

練習記11日目。これまでの記録は以下。

2026年1月19日(月曜日)Day 11

セキ

まず今朝あったことね。わたしは1日3問の詰碁をやろうと決心し、アプリを開いて中級の1問目から解き始めた。1問目は15分くらいでクリア。

そして取り掛かった2問目。結論から言うと、わたしはセキのルールを把握していなかったせいで、8手詰めの詰碁1題に2時間10分の間取り組み続け、結局最後は降参してほとんど答えを見るようなことをしたので、要するに正解することができなかった。

問題としては、最終的に相手がもしホウリコミを成功させたら(自分が対応すると3目ナカデが発生するため)自分の石が死ぬという状況で、うまく形をセキに持っていくことで相手にホウリコミをできなくさせる(相手がホウリコミをすると、こちらの対応によって、こちらがL字またはI字型に連なった4目の空きを囲んだ形になるので、手を抜かなければナカデが発生せず、こちらが生きる)ということに成功すれば、こちらのクリアとなる、というクリア条件の問題だったと言える。

  • こう書くと複雑っぽいが、以下の形を見ればとくに複雑ではなく、(セキを把握してさえいれば)死活の判定は簡単だと思う。

  • セキ、ナカデ、ホウリコミという3つの用語は、その問題の答えを見たあとGeminiとその問題について話していたら教えてくれた。(追記:曲がり四目、直四、という二つの用語を把握!)

  • 形は以下。

  • 見て取れること:①白が自分から中に石を置いてくれるまで黒にアタリはかからないので黒はその限りにおいて絶対に死なず、このため黒はこの状況をこのまま放っておくことができ、また②白が自分から中に石を置いてくれると黒は対応すれば生存が確定し、そして③黒が中に石を置くと黒は死に、④黒が中に石を置かずにいれば、白が何をしても黒は適切に対応さえすれば死なずに済む。

  • ②と③の連言がセキであるための十分条件となっているということかな?

  • あれ。それとも、①と②と③と④の連言がセキであるための十分条件となっている?(セキをまだ雰囲気でしか理解していないひと。)ちょっと考えとくか~。

    • ①は「白石が置かれない→黒石は死なない」。つまり「白の放置→黒の利益」。
    • ②は「白石が置かれる→黒石は死なない」。つまり「白の行動→黒の利益」。
    • ③は「黒石が置かれる→黒石は死ぬ」。つまり「黒の行動→白の利益」。
    • ④は「黒石が置かれない→黒石は死なない」。つまり「黒の放置→黒の利益」。
    • ってことは、②と③の連言がセキであるための十分条件か。そんで、①の否定は黒石が死んでいることを意味していそうであり、④の否定も、黒石が死んでいることを(ほぼ)意味していそうだね。ってことは、①と④はどちらも単独で、セキであるための必要条件か。
    • おーけー。要するに「(②&③)→①」と「(②&③)→④」がいずれも真だってことなので、①と④はどちらもいわばこのセキに必ず伴う、このセキの結果みたいなものね。
    • 完全に理解!
  • 実際に表示された形をしげしげと眺めればこの理屈自体は見て取れるけれど、盤面の変化を読もうとしているときはこの理屈に気づいていなかったので(セキを知らなかったため!)この形を目指すことができなかったばかりか、この形自体は何度も頭には浮かべていたのに、黒が死んでいる形だと勘違いして毎回スルーしていた。

かなり時間を無駄にしてしまい、大反省。基本的なルールを把握しきれていないとこういうことになるんだな……。中級2問目から異常に難しい問題が出てきたなってずっとちょっと思っていて、このアプリが難易度調整にミスっているかわたしがガチで詰碁苦手で終わっているかのどちらかだろうと思っていたら、どちらでもなかった。まあそれはよかった。

疲れたので3問目は開かずに今日の詰碁タイムは終了とした。

詠唱省略術

このあと今日は手筋の勉強かなと思っているが、その前に昨日の手順詠唱法の話の続き。

わたしが今日から詠唱省略術と呼ぶものに、手筋の勉強は役立つだろう。すなわち詠唱省略とは、手順系列を構成するある部分が一定のパターンを有する場合に、その部分をそのパターンの名前に置き換えることによって、記憶するべき文字列を短くしつつ、その文字列のユニット数を削減することである。

意味がわからないかもしれないので単純な例を見る。

  • 手順系列の最後などに現れる「ホウリコミ、トリ、トリ」を「ウッテガエシ」に置き換える。
  • 手順系列の最後などに現れる「アテ、ツギ、トリ」を「オイオトシ」に置き換える。

こうした置き換えには、手順系列の記憶・保持のしやすさを向上させてくれることが期待される。つまり、わたしが今日から行いたい手順の勉強は、以上のような詠唱省略の働きのおかげで、手順詠唱法を用いた読みの正確さや深さを向上させてくれるかもしれないなと、わたしは期待している。どうかなあ。

手順の詠唱化

上記とは少し異なる働きを期待して、わたしは今後、多種多様な囲碁用語にできるだけ親しむことを考えている。

手順詠唱法には次の当然の弱点がある。それは、ある手順に短い名前が割り当てられていない限り、その手順を手順系列に組み込むことができないという弱点である。たとえばある一手が「ツケ」であるという認識をわたしが持てていない場合、わたしはその手を「ツケ」という文字列ないし音声のユニットとして手順系列に組み込むことができない。するとこうした場合、その空所を含んだ手順系列を保持するためには視覚的情報または長大な文字情報が必要となってしまい、手順詠唱法のポイントが損なわれてしまうことが懸念される。

こうした事態を防ぐためには、わたしは多種多様な囲碁用語に親しんでおき、盤上に発生しうる可能な限り多くの手に短い名前を割り当てられるように備えておくことが役立つはずである。この準備を手順の詠唱化と呼ぼう。

また手順の詠唱化には次のような種類もありそうだ。たとえば「コスミツケ」という用語を知っておくことが、ある文字列ユニットが他の「ツケ」トークンではなくまさにその位置の「ツケ」トークンを意味するといった、その文字列ユニットの一意性の保証に役立つという事情は自然に想定される。囲碁用語に親しむことにはこちらの種類の働きも期待できるように思う。

まあポイントとしては、制御したいものの名前を知ることがその制御を容易にするという話であり、なんだかおしゃれな設定のバトル漫画みたいでいい話だなと思う。囲碁の本は魔導書みたいなものってことね!(かすかに恥ずかしい。笑)

手筋の勉強

手筋の勉強をする。上に書いたことからわかると思うけれど、さしあたりの目的は二つ。

  • ①初見ではなかなか気づけないような現象を把握して、実際の対局で発生したとき(または、発生しそうなとき)に対応できるようにする。
  • ②すでに理解、把握している現象の名前を知って、詠唱省略に役立てる。

というわけで、始めよう~。

勉強した手筋をここに書き写してもあんまり意味ないので、まあ今日の記録はこれで終わろうかな。

今日はおしまい。