日記 2023年11月 リサイクル

1日 水曜日

11月になったら久しぶりに日記をつけよう、とここ1週間ほど思っていた。

今日は書類を2つ作る(本来なら2年前に提出されているべきだった)。

母が近所に用事で来ていて、その用事の後少しだけ家に来る。

昨日は病院で、先生に最近集中があまりにも続かないんですという相談をしたところ、以下の助言をもらう。

  • パラグラフを読むごとに休んでみてはどうか。作業の最小単位はパラグラフを一つ読むことだろうから。
  • そうすると内容を覚えておけないと思われるので、パラグラフごとに短いメモ(長くて2、3文のもの)を作るとか、要約を声に出して喋って録音して、後で自動文字起こしをしたり聞き返したりしてみてはどうか。
  • 哲学でこの方法が使えるかどうかはわからないけれど。

しばらく試してみてもいいかもしれないと思う。

 

2日 木曜日

夢。わたしは外で長椅子に座っていて、すぐ左に置いてあったチョコレートのお菓子を食べる。すると少し離れたところから小さい子が「あー!」と叫ぶ。そのお菓子はその子のものだったようだ。わたしは慌てて、ごめんねー、同じの買ってあげるからねーと言いながら財布を探す。そのお菓子が売られていそうな店はすぐ目の前にあるのだが、財布がなかなか見つからない。わたしは何度もごめんねーと言いながら財布を探し、探している途中で目が覚めた。

 

3日 金曜日

金曜日だが祝日なので大学に行かない。

何かもっともな理由のあることで人から褒められたい。わたしはよい知らせが好きだ。

 

4日 土曜日

今日感動した言葉、「私は午前と午後の二元論に納得してない」。

人が学会発表の準備をしていて話を聞いてほしいと言うので話を聞いた。

夜は読書会。アリストテレスの四原因論が出てきて頭が痛くなる(苦手なため……)。

 

5日 日曜日

人々とカラオケに行く。時折腹筋している人がいた。途中でDixitというボードゲームを遊ぶ。点数計算方法の表を見ながら「これって①と②と③で尽くされてるから〜」と言っている人がいた。

 

6日 月曜日

人と「ガタカ」を途中まで見てやめて「MIU404」の第3話「分岐点」を見る。お寿司を食べる。すきなものごとを10個挙げる遊びをする。

 

7日 火曜日

わたしが文章を書くとき、つねに音読しているときと同じしかたで書いている気がするなあと以前から思っている。

 

8日 水曜日

人と作業通話をする。夜の研究会の準備をしていたら一日が終わってしまう。

 

9日 木曜日

一日休んでいた。

夢。弟が突然自殺未遂のようなことをして全面的かつ不可逆に記憶を失うという夢を見た。起きたとき夢だとわかって安心して泣きそうになる。

ガタカ」のあらすじはWikipediaでフォローした。いいよもうこれでと思う。ラストだけは見たいかもしれない。

 

10日 金曜日

午後は雨が降ると知りながら家を出る。超越論的な考え方と実存哲学の相性が悪いという話がわたしにはあまり自明に見えずうまく飲み込めなかった。雨に降られる。

 

12日 日曜日

博士論文の話を人に3時間も聞いてもらう。しかし……。

わたしはずっと自分の生まれ月が8月だということに違和感を持っていて、本来は別の月の生まれなのだという感覚がある。十二星座性格診断みたいなものを見るたびに思う、わたしは獅子座ではなさそうだと。この話をこのまえ友達にしたら後日、生まれ月を考えておいたよと言われた。1月だという。理由を聞くと、年内という感じではなく、2月や3月でもなさそうだからだということ。消去法だ。今日同じ人とその話をしていたら、山羊座水瓶座から選ばせてもらえたのでわたしは水瓶座だということになった。1月生まれの水瓶座ということで、わたしは本来は1月20日~31日の間に生まれるはずだった人になった。

左の人差し指にごくわずかな怪我をしている(包丁による)のだが、同居人に発見されたので少しうれしい。

 

14日 火曜日

昼間から夕方までは仕事。夜は博士論文の話を人に聞いてもらう。

 

15日 水曜日

夜は定言命法仮言命法に関する研究会。

 

16日 木曜日

正午頃から夜まで人と新宿で遊ぶ。都庁展望室、散歩、昼食、カラオケ、夕食、散歩、解散みたいな感じだった。10年くらい前のアニソンをよく歌う。高校が同じだった人。

新宿に住んでいる亀もいる。

アイディア自体には哲学的とかそうでないとかはなくて、その表現の仕方に違いがあるにすぎないんだというような主張をする。

 

17日 金曜日

雨。体調が優れず、授業に出かけられない。悲しい。

夜は研究会。キャンセルカルチャーの話を聞く。私たちが個人道徳の問題として一般にキャンセル行為をすべきでないとは考えにくいと思った。

授業には出られなかったが、博士論文構想のver. 1ができた気がする。少し安心した。先生に見せてどういうことを言われるかはわからないけれども。わたしは博士論文を来年秋頃までに書かなければならない。タイトル案について

わたし「ちなみに気持ちとしては堅~い感じを狙っています」
人「堅~い感じ」

 

18日 土曜日

昼下がりから夕方までは人とバーガーキングで作業。本を4冊、論文を4報持って家を出たところ、半分はひらきもしなかった。

夜は研究会。procreative beneficenceの話。子供を作ろうとする人には福利の点で最良の人生を送ることが予期される子供を選択するべき道徳的義務がある(胚を選べるとして)という主張を支えようとする議論を読む。疾患遺伝子についての主張から非疾患遺伝子についての主張への橋渡しがうまくいっているのかどうかという話をする。

Savulescu, Julian (2001). Procreative Beneficence: Why We Should Select the Best Children. Bioethics 15 (5-6):413-426. ジュリアン・サヴァレスキュ(2016)「生殖の善行:われわれが最善の子どもを選ぶべき理由」澤井努訳、『いのちの未来』第1号、100-114頁。

 

19日 日曜日

最近愛せるようになってきた言葉:見解
という気がする。

人がぬいぐるみを洗濯しているという情報を教えてくれる。

昼すぎから夕方まで研究会。Bennett Helmの議論の要約を聞く。私たちがそれ自体として持つ価値の話にはわたしは暖かさを感じ、私たちが何らかのプロジェクトの成否との関連で持つ価値の話にはわたしは冷たさを感じるという発見があった。わずかに自己理解が得られたということ。

この5日間で4回も研究会をして疲れてしまった。

今後しばらく週に1回のペースでデレク・パーフィット『重要なことについて』の読書会に出るという選択をする。

 

20日 月曜日

朝、ポケモンスリープを見たらカビゴンのおなかの上でアブソルさまが寝ていてうれしく思い、GETする。

丸一日気ままにすごしてしまった。よかったのかな。

compersionという名前がついている気持ちのことに若干の関心はあるので本を買おうかどうか迷っている。

トマトがとめいとーなら卵はためいごーだよ。

 

21日 火曜日

Deathという題の文章を読んでいたら調子が悪くなってきてしまう。

 

22日 水曜日

死の哲学を研究している人とかにどう思われるかわからないけれど、わたしは(自分の、または一般に)死について考える時間を他のことに充てたほうがよいのではないかという感覚を持っている。考えても死が訪れなくなるわけではないのなら、死が訪れるまでの期間の過ごし方をよりよくすることのほうが大切に思えるというそういう感覚である。あるプロジェクト(Aとする)があるとする。まさにAに取り組むことが、A自体の構造についての思索(Bとする)を主要な部分として含むとすると、もしAにBの価値に由来する価値があるとしたら、その価値があるためにはAに重要性がなければならない――ある思索に価値があるためにはその主題に重要性がなければならないという原則から――と思うが、これは循環だ。そして、Bの価値に由来するAの価値がこうした仕方で循環的だとしたら、Bに取り組むべき理由はその分だけ弱いだろう。こういう感覚がわたしにはある。Aには人生が、Bにはたとえば死の哲学が入れられるだろうか。

人の家に遊びに行って、ほたて丼を振る舞われたり夕食を作ったりする。

帰りに複雑な話をする。

 

23日 木曜日

朝はなんとか起きて研究会。死の悪さについて。

その後、別の共同研究の方針について人と話し、その後、昨夜の複雑な話について人と話す。

 

24日 金曜日

大学に行き、博士論文構想について先生からコメントをもらう。基本的にはこれでいいのではないかという感じだったので安心したが、使ったレジュメは真っ赤にはなった。でも一安心。なんとか来年秋までに提出できそうだと思う。春先にはできる?と言われてさすがにそれは無理なのではと思った。

その後、午後は研究会に出る。運動表象の話とマイノングの話を聞く。参加者たちと夕食をご一緒し、二軒目にも行って帰宅。博士論文について作家性の要求の話が興味深かった。

 

25日 土曜日

正午すぎに起きる。早起きだ。事実ではなく気持ちが早起きだった。

難しいが、人に謝りながら同じ人を慰める。

夜は明日の学会発表に使うというスライドを見てあれこれコメントを述べる。

 

26日 日曜日

9時には起きる。世界では日哲秋大会とかがあったらしい。

 

27日 月曜日

わたしの今日の暮らし、映画の脚本だったら全然おもしろくないから脚本家の人は反省してほしい。

11月22日の続き。人生は容器のようなものに思える。その容器の中身が価値や重要性を持つことはたくさんあるだろう。しかし、容器そのものには重要性はあるだろうか。わからない。死はその容器の端だ。考えることはそれ自体として価値があるようには思えず、その主題に何らかの重要性がある限りにおいて派生的に価値のあることのように思える(※)。死について考えることは、人生の中身ではなく容器のほうという、重要性があるのかどうかわたしにはよくわからないものについて考えることだ。わたしにはそう思える。
(※)悲惨な出来事(だから価値のない出来事)に関して再発を防ぐためといった目的で考察を行うことの価値も、その出来事の重要性に由来する派生的な価値だろう。

 

28日 火曜日

起きたら仕事をして、病院に行って、仕事の続きをして、夜は哲学若手研究者フォーラムの運営会議をして、仕事の残りを終えて就寝。他のことは何もできず、まあそういう日もあるよ、火曜日だし。

合間に駅前の中華料理店でおいしい麻婆豆腐定食を食べる。

 

29日 水曜日

一定水準以上の人たちがいる場所にいる討論上手だけがとりえの人は、議論の優勢な側に立つときには勝ち、反対側に立つときには負けているだけの影みたいなものだと思うからさほど有害ではないのではないかと思う。議論の道行きが討論技術一つで左右されてしまうような場所では無害とはいえないだろうけれども。あるいは討論技術の名で人格攻撃とかをする場合は有害だけれども。

夜は学会発表を3日後に控えた人の発表原稿にコメントを述べる。人の原稿だと思ってけっこういろいろリクエストをしてしまう。役に立っているといいなと思いつつ。

 

30日 木曜日

7時半頃に起きてコーヒーをいれる。

学内紀要のような論文集の編集を今年度は任されていて、その関連の雑務をこなしていたら午前中が溶ける。日本語勉強中の留学生の人が二人英語で原稿を寄せてくれることになっているため、原稿テンプレートの英文バージョンを作る必要があったりお知らせ等のメールに同内容の英文を併記する必要があったりして大変。言葉が間違っていたら恥ずかしいという思いから気疲れする。

午後は文献を読む。人に監視されながらでないと作業ができない日だった気がする。人に監視されなかったので作業ができなかったということ。あー。

その後、人と作業通話しながらこの日記のタイトルを考えていて、循環と容器だったらどっちがいい?と聞いたら「どちらも嫌だ、どちらもうっすらむなしい」と言われる。「でも循環する容器はリサイクルのイメージがあってむなしくない」。というわけでリサイクルに決まる。

夜は焼肉。帰ってきて同居人のマフラーにファブリーズ的霧吹きをしたら、気ままな書道家のようだねと言われた。厳格な哲学者ですと言っておいた。(厳格な哲学者ではないし気ままな哲学者でもない。)